ポケモンと自分(前編)

ポケモンというゲームをプレイしたのは、もう5年以上も前の話。自分はたしか高校2、3年生だった。なぜポケモンに興味を持ったのかというと、当時にしては斬新なシステムが、自分の中でかなりのヒットだったからだ。

そして、もうひとつの理由がある。

当時の自分は、高校1年の12月頃にようやくパソコンを買ってもらい、RPGツクールというゲーム作りの支援ソフトに熱中していた。RPGツクールを知ったのは、たしか中学3年の頃だったと思う。英語の塾で一緒に学んでいたデブっちょな知り合いが、RPGを手軽に作れるパソコンのソフトがある事を教えてくれたのがそもそものキッカケ。まだパソコンを持っていないにも関わらず、RPGツクールを手にして熱くなっていた。

結局、RPGツクールでは具体的な作品を残せないままに終わったのだが、あれこれ試行錯誤して、自分なりに真剣に遊んでいた。キャラクターツクールといった関連ツールまで買って、キャラクターなどをデザインするためにパソコンの前で何日も何日も集中して作業をしたりもした。(結局、時間ばかりかけてたいしたものは作れなかったし、親に怒られてせっかく作ったデータを全消去したりもして、当時の力作はほとんど手元に残っていない。)

授業中などのヒマな時間(?)にはゲームのストーリーやシステムをあれこれ考えたりもした。当時思い浮かべていたのは、5年以上経った今では実際にゲームショップで売られている「サモンナイト」というゲームのような、召喚魔法や召喚獣を駆使して戦うゲーム・ストーリーだった。(サモンナイトを実際に遊んだ事がないのでひょっとしたらまったく別物な可能性も…。ただ、「サモンナイト」という題名を最初に聞いたとき、自分が当時作ろうとしていたゲームの題名と似ていたので、「トラレター」という思いがした。)

RPGツクールには制限があって、現代や未来を舞台にしたゲームが作りにくく、どうしても中世あたりの世界観を元にせざるをえなかった。本当はギャングやサイキックを下地にしたかったのだけど、RPGツクールの場合、戦闘画面にどうしても「魔法」という文字が表示されてフンイキに合わず、その上、世界観に合わせて一からマップやモンスターのパーツを作り直さなきゃならなかったりと、ゲームを作成するスキルがそれなりに高くないと到底終えられないような作業が大量に発生するので、やむなくアキラメタ。で、先にも書いたような召喚魔法、というよりも召喚獣を駆使するようなゲームの路線で、あれこれ考えを煮詰めていった。(ただ、全国の人が雑誌などで発表したRPGツクールで作った作品には、現代的なものやギャング的なものもあり、そのデータを二次利用させてもらう事でなんとか作れないわけでもなく、それらの路線で想像を巡らさないわけじゃなかった。)

自分の思い描いた、召喚獣を元にしたストーリーとは↓のような話。
ある村の少年が、現代でいう成人の日を迎える。(その世界での成人はだいたい14、5才を想定。)成人の日、村の社(やしろ)の特別な大部屋(床には大きな魔法陣がある)で、成人を迎えたものにそれぞれ1匹ずつの召喚獣が与えられる。召喚獣はそれぞれの潜在能力に値したレベルのものが別世界から降臨し、一生その者の「守護獣」として生きてもらうこととなる。少年とその仲間は儀式を受け、それぞれの守護獣を手に入れる。守護獣は意志を持っており、言葉を話すものもいたりする。守護を受けた人間の精神的成長とともに守護獣も進化し、人間同士で争う場合は、人間でなく守護獣の力によって争う。守護獣を手に入れた少年は、自らの成長をのぞんで、世界へと旅に出る。…

…思い出しながら書いたので微妙に違うかもしれないけど、だいたいこんな感じ。上の文章では堅苦しいストーリーにも見えなくないが、実際には軽いノリで、ドラえもんのようなサクサクした展開をずっと考えていた。守護獣のネタは、今思い浮かべてみると、ジョジョや、うしおととらや、電影少女とかの影響かと思う。なんだかそういった「守護霊的なもの」に「アコガレル心」というのが、当時の自分の中に強くあったわけだ。女神転生シリーズ(テレビゲーム)の「ペルソナ」を昔遊んだ事があるのだけど、ダークな世界観はともかく、主人公らがペルソナと呼ばれる守護霊的な悪魔を駆使して戦う姿は、かっこ良くてホレボレした記憶がある。

ひょっとしたら守護霊的なネタは「ありがち!」と言われるかもしれない。自分が作りたかったのはたしかにそういった話だった。けれど、更にいうと、「マニアックじゃない話」を作りたかった。守護霊のような、自分の分身もしくは理想の相棒を登場させるストーリーは、どうしてかマニアックな話になりがちに思えた。ジョジョにしても少しマニアックだと思ったし、先にも書いた「ドラえもんのようなサクサクした展開」で、マニアックなファンを作らないような軽いものが作りたくてしょうがなかった。(結局は無理だったけど。)

そんな事を頭に巡らしていた時期に、ファミ通か何かの記事で偶然目にしたのが、ポケモンこと「ポケットモンスター」だ。

ストーリーやゲームシステムを見た瞬間、「これは買わなきゃ!」と思った。あまりに自分が作りたかったゲームに似ていた。いや、ゲーム自体は自分の想像したものとは違うけれど、コンセプトがソックリだった。「こんなゲームを作りたい!」ということは「こんなゲームを遊びたい!」と同一の意味である。ソフトを初めて手にしたとき、「こんなゲームを待っていたし作りたかったんだ」と素直に思った。

関係ないけれど、自分はたまごっちがブームになる前にもアレを速攻でゲットした覚えがある。アレについても、「こんな育成ゲームあればオモシロイのになー」とずっと思っていて、たまごっちの記事をこれまたファミ通かなにかで発見した瞬間、「これは買わなきゃ!」とすぐさま近くのホビーショップで予約して取り寄せてもらった。たぶん自分と同じような事をした人が全国にたくさんいて、そういう人の力も少しは加わってヒット商品になったんだと思う。今は見事に廃れたけど、その原因は、ゲーム性が低くて飽きやすいのにかかわらず更なるアイディアや工夫がほとんど見られなかったのと、バンダイの販売戦略ミスにあると思う。

話を戻して、ファミ通か何かの記事でポケモンの存在を知った自分は、ポケモン(緑バージョン)をすぐさま買って、すぐさまプレイしてみた。やってみた感想として、やはりというかオモシロカッタ。オモシロカッタ要素を当時を思い出しながら書き連ねてみると、
・ゲームの自由度の高さ
・謎解きのバランスの良さ
・ポケモン同士の相性
・ポケモンの収集(図鑑の完成を目指す)
・ポケモンの育成
…などが挙げられる。

まずは「ゲームの自由度の高さ」について。ポケモンは、ストーリーは決して自由ではなく、まったくの一本道。どのプレイヤーもまったく同じかほとんど変わらぬ道順でクリアを目指す事となる。では何が「自由」なのかというと、ストーリーを進める上で数々の戦闘(バトル)をするわけなのだが、そのバトルにおいて好みのポケモンを使えること、それが恐ろしく「自由」だ。

ポケモンの種類はざっと150(+1)種類。連れ歩けるのは6匹までで、ゲーム内のパソコン(倉庫の役割をこなす)に、ポケモンを好きなときに預けたり引き出したりできる。ゲームの始まりの場面で、ある3匹のポケモンのうち1匹を選ぶはめになるが、最初に選んだそのポケモンをわざわざ最後まで連れ歩く必要はない。道中で他に気に入ったポケモンに出遭えば、捕まえて連れ歩き(←俗にいう「ゲットだぜ!」ってやつ)、最初にもらったポケモンのほうはさっさとパソコンに預ける事だってできる。プレイヤーが好みのポケモンを連れ歩くことでそれぞれ個性的なプレイを満喫できる。

「謎解きのバランスの良さ」について、ポケモンは当時まだ名の知れていないゲームだっただけに、RPG特有の謎解き要素、たとえばダンジョンの難易度や、町で起こるイベントの難易度というものが、どの程度におさまっているかが心配だった。

実際にプレイしてみると、かなりドラクエに近い(というよりドラクエをまねた謎解きばかりのような)印象を持った。小学生もしくはそれ以下でもわかる謎解きになっていて、攻略本などのある種ディープな情報は必要としない。「そんなのわかるかよ!」とキレてしまうような謎解きは一切ない。そして一度謎を解いたなら二度目からは流れるように簡単にクリアできる。間口の広い良心的な作りといえると思う。

「ポケモン同士の相性」について、これはジャンケンを少しだけ複雑にしたシステムで、「ポケモン」と「ポケモンの使う技」にはタイプが存在し、たとえば「ほのお(炎)」や「みず(水)」や「くさ(草)」など、総計15種類のタイプがあるのだが、「ほのお」タイプの技は「くさ」タイプのポケモンに効き目十分で、「くさ」タイプの技は「みず」タイプのポケモンに効き目十分、更には「みず」タイプの技は「ほのお」タイプのポケモンに効き目十分といった具合に、技とポケモンとの相性があるおかげで、戦略性が非常に豊かになっている。具体的に説明すると、あの有名な「ピカチュウ」は電気タイプのポケモンなので、「じしん(地震)」などの地面タイプの技の攻撃を受けた場合は効果抜群、つまり普段の2倍のダメージをくらってしまう。しかし、「ドリルくちばし(飛行タイプの技)」や「かみなり(電気タイプの技)」のような技を受けた場合は1/2倍のダメージで済む。相性の良し悪しはバトル時の画面に「こうかは ばつぐんだ!」とか表示されるのですぐにワカル。

実は、ゲームに出てくる敵のポケモンはそれほど強くなく、上で説明したような「相性」を気にしなくとも軽くクリアする事ができる。相性が大事になってくるのは通信ケーブルを使った「対人戦」のポケモンバトルだ。対人戦とはつまり、本当の人間同士で戦う時の事をいうのだが、その場合は相性が大変重要になってくる。

相性についてまだすべてを説明しきれていないが、この要素がゲームを大変面白くしているのはなんとなくわかってほしい。

「ポケモンの収集」について、これはポケモンを遊んだ事のない人でも薄々感づいているように、このゲームの目的のひとつは、すべてのポケモンを捕まえてポケモンの図鑑を完成させる事にある。

あちこちで大量発生していていつでもゲット可能なポケモン、めったに出現せずに捕まえにくいポケモン、ゲーム内でたった1匹しかお目にかかれないレアなポケモン、特別なアイテムを使用しないと進化しないポケモン、通信交換中にしか進化しないポケモンなど、いろんなバリエーションがある。

中でもこのゲームで工夫されているのは、ポケモンの赤バージョンのカセットでしか出現しないポケモン、緑バージョンのほうでしか出現しないポケモンがいるという点だ。この工夫のおかげで、すべてのポケモンを集めるには両方のカセットを買うか、違う色のカセットを持った友達と交換し合わなければならない。端から聞くとメンドウな話にも聞こえるけれど、これがゲームのボリュームに厚みを持たせていて、非常に画期的かつスバラシイアイディアであるのを痛感させられる。よく思いついたと思う。(マリオの生みの親、宮本茂さんのアイディアらしい。)

最後に、ゲーム内に現れない「幻のポケモン」の存在…。幻のポケモン「ミュウ」は、小学生が主な購買層である「コロコロコミック(通称コロコロ)」にて初めてその存在が明かされたんじゃないかと思うのだが、その際、ごく限った数だけ懸賞としてプレゼント配布された。当時、編集部の予想に反して大量のハガキが届き、多大なる反響があったというのは有名な話で、自分も人伝にその事を聞き、ミュウを入手したくてウズウズしていた。(結局その後、何度かに渡ってミュウを配布する任天堂の公式イベントがあり、その機会に何匹かゲットした。まぁそれくらい自分はポケモンマニアだったわけで、当時ポケモンを遊んだ一般人の多くは図鑑の完成すらしていないわけで、そのやり込みぶりを当時は自画自賛?したものだが、その後、インターネットを始めてから、自分より更に上のオゾマシイ世界を知る事になる。それは中編にて。)

「ポケモンの育成」について、ポケモンの能力は「HP」「こうげき」「すばやさ」「ぼうぎょ」「とくしゅ」の5つのパラメータで構成されている。これはドラクエなどの他のRPGでもよく見かける普通のパラメータだ。同じポケモンを捕まえても、強いのと弱いのがいて、強いのは当然これらのパラメータが高く、弱いのは低い。

先程の「普通のパラメータ」という言葉を聞いて「それじゃあポケモンには普通じゃないパラメータがあるのか!」とツッコミをいれた人もいると思うが、その通り、普通じゃない目新しいパラメータが存在する。

どういったものかというと、たとえばピカチュウを育てるとき、いつも連れ歩いてバトルに出して育てるのと、育て屋さんという所に預けたり「ふしぎなアメ」というアイテムを使って育てたのとでは、強さに大きな開きが出てくる。つまり、パラメータの伸びが違ってくる。バトルにいっぱい出して育てたポケモンのほうが強くなるのだ。これはすべて、ある「謎のパラメータ」が関係している。

要は、「愛情をかけて大事に育てたポケモンのほうが強くなる」ような仕組になっているのだが、インターネットで詳しい知識を得る前の自分は、ただ漠然とその事を認識していただけで、深くは知らなかった。深く知ると、より効率的にその「謎のパラメータ」を上げられるようになるわけだが…。

以上、オモシロイ要素を詳しく語ってみたが、ツマラナイ要素も当然にあった。

まず、ポケモンの種類が多いとはいえ、「ダレもこのポケモンには魅力を感じないだろ?」と思ってしまうような、しょぼいポケモンがいくつか見受けられる事。

こういったゲームは、キャラクターの魅力こそが「命」であって、魅力のないキャラクターばかりだったならば収集する気さえしないはずである。魅力あるポケモンを際立たせるために魅力ないポケモンをバランス良く配置したのかもしれないけど、ピカチュウが突出して人気になってしまったのも、キャラクターの魅力の高低差が激しすぎたせいじゃないかと。

かくいう自分も、最初のプレイではピカチュウの進化系のライチュウを使っていた。ピカチュウは他のポケモンと比較すると見た目がかわいげで、出現率も少し低めに設定されているので、いかにもレアっぽい、ちょっと上等なポケモンに見えた。(他にはあちこちで頻出するニドラン♀の進化系のニドクインも愛用していたが、弱くて最終戦がつらかったので使うのをヤメタ。ポケモンの相性を研究してからは見た目の気に入ったニョロボンをめちゃくちゃ愛用した。ピカチュウはあまりに人気があるので、すぐに冷めた。その後、アニメでのけっこうデブってる姿に尚更に冷めた。)

ツマラナイ要素の2つ目は、何もかもがゆったりのんびり、スローリーな事。ゲームボーイの処理能力ではあれが限界だったのかもしれないけれど、歩く速さにしても戦闘時の処理にしても、何もかもがゆったりもったりしている。おじゃる丸くらいのまったり感なので、短気な人やあれこれ急ぎの用がある人ならやっていられない。何か別の事をしながらプレイしないと時間がもったいないと感じる人もいると思う。基本的にドラクエっぽいので、ドラクエをプレイしていてストレスを感じない人は問題ない。FFなどの親切なゲームに慣れてしまっているとさすがにストレスあるのでは?というレベル。

ツマラナイ要素は他にもあるのだが、遊び始めた当時に気になったのは上の2つくらいだった。

ポケモンは、通信交換や通信対戦による「人とのコミュニケーション」をひとつの大きな目的に据えたゲームなのだけれど、すでに高校生だった自分はそんな目的のために当然使うわけがなく、教室でポケモンを遊んでいる珍しい高校生でも見かければ、後ろから「151匹全部集めたぜ!」と声をかけて、「ウソ!マジで!?」と返答をもらうくらいのレベルだった。

今考えると、(というより、ある人から習った事なのだけど、)ポケモンでできる「人とのコミュニケーション」は、非常に生(なま)の部分が大きい。

たとえばオンラインゲーム(広義においてインターネット)では、「人とのコミュニケーション」はできるけれども生の部分が少ない。だって、実際に会っていないのだから。特にオンラインゲームは殺伐したフンイキになりやすい。生の部分が少ないコミュニケーションは、世間的に「不健全」と思われやすく、実際に不健全な場合も多い。ポケモンは、健全なコミュニケーションが成り立っていた。これはけっこう大事な事じゃないかと思う。

たとえば、自分が親になって、娘がもし出会い系サイトを利用しているのを見てしまったなら、正直イヤな気持ちがして注意すると思う。それとまったく同じ感覚…といったら変だけれど、オンラインゲームでのコミュニケーションも似たようなところがあるんじゃないかと。親は娘が出会い系サイトで人と会話するのを見て「不健全だ!」と思う、けど娘は出会い系サイトを通じて人と知り合うのも普通に人と知り合うのもそんな変わらないじゃんと思う。(娘がそう思うのもある意味当然な気がする。)

世の中の流れいかんでは、出会い系サイトに嫌悪感をもよおす人がどんどん減っていって、嫌悪感をもよおす人は「考え方が古い」と言われるようになるかもしれない。それとも、「やっぱりおかしい」と感じる人が今後も常に居続けるかもしれない。それと同じ事が、オンラインゲームにもいえるんじゃないかと。「子供にはオンラインゲームをやらせたくない」と思わせるようなオンラインゲームが増えない事を祈るばかり。

ポケモンのような健全なコミュニティーを形成しうるゲームは大事にせねばならんと思う。ドラえもんのような長期的な人気を保持したいなら、まずは健全な遊び方を提供し続ける。それが大事だ。ポケモンがモバイルシステムGBを始めたときは少し心配になった。ムダにお金をかけさせる遊びは「不健全」だ。たまごっちが廃れたのは勉強や仕事の邪魔になって「不健全」だったのも一因かもしれない。

まぁそれはともかくとして。

とりあえず自分は、スバラシイ作品に出会った。攻略本を眺めているだけで楽しい気分にさせられた。←これは好きなテレビゲームに出会うと決まって起こる症状。

でも、遊びに遊び倒して、さすがに飽きてきた。テレビゲームはどんな良作でも大抵は2、3ヶ月で飽きる。スペシャルな作品だと半年、長くて1年だ。ポケモンはそのイメージから世間的に「底の浅い薄っぺらなゲーム」と思われている節もあるが、これが実はかなり奥が深く、突き詰めていけば長く楽しめる。それでも1年遊べたかどうかわからない。(というよりも記録していなくてどのくらいの期間遊んでいたか不明。ただ、相当長いと思う。2年近く遊んでいた可能性もあるような…。)

途中、ポケモンスタジアムなどの関連商品を買って楽しむ時期もあったりして、'98年の11月頃、ついにインターネットを始める。

そこで自分は、オソロシイものを見る事となる…。(中編に続く)

('02年03月29日制作)

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